私達の行く先は天ではなかった。
第弐話 別火寿希の場合②
三月下旬、志名利病院の702号室。看護師さんの話によると、外は冬も終わり気温も高くなってきているようで、桜ももう満開に咲いているらしい。
けれども僕は今、真っ白な病室の天井を眺めている。もう少し厳密に言うと、イヤホンで音楽を聴きながら、頭の中で一緒に歌いながら天井の汚れを眺めているって感じだ。
別に桜を見たっていいんだけど、この病院から外に出られる保障もなくて虚しくなるだけだから見ようとは思わない。
そろそろまた、誰か車椅子押して院内でもいいから散歩させてくれないかなぁ……なんて。そんなことを考える。
その時。
突然、ガララ、バタン!と扉が開いて空虚だった部屋の空気が変わる。
「ただいま寿希! 元気にしてたか?」
そっか、もう夕方なんだ。僕は声の主を苦笑いで出迎える。
「お姉ちゃんうるさい。あと病人に元気かとか聞くの不謹慎だよ」
この眼帯の大きな声の人がお姉ちゃん。夕方になるといっつもただ一人お見舞いに来てくれる。
声が大きくて声が漏れるのか、はたまた黒革の眼帯が目立ちすぎるのか、看護師さんは全員お姉ちゃんのことを知っている。
僕はお姉ちゃんが来ると扉の音もそうだけど声が大きくて毎日少し驚いてしまう。
なんというか、ボソボソ喋っちゃう僕とは正反対で元気で羨ましくて……。
「でもおかえり、今日はいいものあるよ」
僕は、くしゃっとした柔らかい笑みを作り"いつものように"楽しそうな顔をした。
「ふふ、悪い悪い、反省する。」
お姉ちゃんはいつも通り無反省な笑みを浮かべる。
けれど、実を言うと僕はこれがあまり好きじゃない。これは僕の考え過ぎで……悪い癖なんだろうけど、なんだか"理想しか見てない"みたいだから、あんまり好きになれない。
そう、考え過ぎ。僕は窓の外の桜をちらっと見てから再び笑顔でお姉ちゃんの方に向き直った。
でも、お姉ちゃんは続けてこのような言葉を言った。
「でもまあわたしがいずれなんとかするから安心してろよな信じてろって。」
「……」
ああもう。僕はこの言葉がすごく苦手。
どのくらい苦手かって、言われるたびに苦しくって泣きそうになってしまうくらい。時には鼓動が早くなって変な汗が出てしまうくらい。
昔はこんなことはなかったのだけど、いつの間にか、僕がいわゆる思春期というやつに入った頃にはお姉ちゃんのこの言葉を素直に受け入れられなくなっていた。
僕のために頑張らないでほしいって……そう言ってみようと何度も考えたけれど、言えやしなかった。
なぜなら、お姉ちゃんは自分の価値を「頑張る自分そのもの」だと思っているだろうからだ。
頑張らないでほしいなんて言ったらお姉ちゃんへの否定に他ならないから…。
その後、自分から話を変えてくれたお姉ちゃんに変に感謝をしながら僕は密かにイヤホンに繋いだスマートフォンの音量を上げた。
お姉ちゃんは看護師さんに頂いたプリンを食べながら、その後もたくさんのことを僕に話した。日々の自慢話から、お得意の僕を救う理想話まで、何度も何度も。
僕からも自分の好きなバンドの新アルバムの話を振ってみるけれど、「いつか治ったら一緒にライブ行こうな」と話を逸らされてしまう。
それから急に喋らなくなって、お姉ちゃんは勉強へと没頭し始める。こうなってしまっては僕が話しかけてもなんの応答も得られない。
僕は暗くなってきた外を眺めながら音楽に集中することにした。
途中で看護師の方が来て、ご飯が来る。それ以外、僕たち二人はずっとそんな調子で過ごしていた。
もしかしたら、こんなお姉ちゃんに来てもらえるなんて幸せなのかもしれない。両親だって月末に電話が一本かかってくるだけだから。
僕が、僕だけがわがままなのかもって、ずっとずっとそう思ってる。
わがままな僕のためにお姉ちゃんが頑張ってくれていることもよく知っている。
だからこそ、複雑な気持ちに僕の胸がチクリと痛む。
「あ、もう十九時半過ぎちゃってるよお姉ちゃん!」
考え事をしながらふと時計を見ると、もう時計の針が面会終わりの時間を指していた。
「マジで……? わ、ホントだ、そろそろ帰らないと……」
慌てて荷物をまとめるお姉ちゃん。時間を守るなど案外真面目なお姉ちゃんを見て僕の影はどんどん濃くなっていく。
「じゃあな、明日また来るよ寿希」
お姉ちゃんはバタバタと病室を出ていく際に、背中を向けたまま僕に手を振ってくれた。
「うん……お姉ちゃん、またね」
騒々しいお姉ちゃんがいなくなって、病室はまた白く空虚な空間に戻った。
別火寿希の場合①
2023/02/16 up